2017年6月6日火曜日

あがり症の文化的背景

6月に入りました。
前々からあがり症について、私が勉強したことをこれから発表会を迎える生徒さんたちに向けて、レクチャーしていきたいと思いつつ、毎日があっという間に過ぎ行くことに驚きつつ、果たされず、すみません😓そのぶん必要とされているってことで?(笑)、ありがたいことですね。

では、これから少しずつ書いていきます。

「あがり」は全く予測不可能で、小さなコンサート、さほど重要でない予期しない場面で、演奏者を骨の髄から揺さぶります。多くの表現者にとって、あがりは不出来なところや短所を露わにしてしまう、恥でみっともない病気と考えられています。舞台であがった経験は、情け容赦なく人を打ちのめし、演奏に芸術的面で不満を残すような結果を招き、このような失敗が潜在意識に溜まると、自分でどんなに「緊張しませんように」「あがりませんように」と願っても願いも虚しく、結果はいつも不安や恐れ通りに「あがり」が実現化しやすくなってしまいます。
この「あがり」は純粋に個人的なものではありません。文化的な背景を抜きにしては理解できません。あがり症が起こる状況について理解を深めるために、あがり症などないような環境から、眺めてみたいと思います。
 
あがり症は俗にいう『プロアマ』(プロのレベルで演奏するアマチュア)や教会の演奏者、インドの古典芸能やアフリカン・ドラムのプレイヤーには滅多に起こらないようです。アフリカン・ドラムは西洋の音楽よりも遥かに複雑で難しいリズムであるにもかかわらずです。
 
 プロアマの人たちは演奏する際に気分が高揚し、期待感を感じると言います。友達のためにご馳走を作るような気分だそうです。音楽そのものを聴き、演奏し、新しいことに挑戦、発見する喜びが原動力になっています。そして、演奏がうまくいかなくても、結果として仕事を失うわけでも、同僚から軽蔑されるわけでもありません。

 教会の演奏者は「不安を感じないのは、たとえ素晴らしい演奏をしたとしても、それが目的ではなく、祝祭の雰囲気を演出するのが仕事だから」と言います。コンサートと違い、自分が主役でないからだそうです。

 インドの古典芸能者は、教育が生活の一部で、指導者と一緒に寝食を共にし、毎日指導を受け、その中で様々な教えやサポートを受けているから、くつろいで演奏できるのだろうと言います。

 アフリカン・ドラムの奏者は、あがり症に悩んでいる人に出会ったことがないそうです。「我々は音楽を恐れていませんからね」と。ドラムを教える際にあがり症を防ぐ要素についてこう挙げています。「私たちは絶対に間違いを指摘しません。そんなことは馬鹿げています、幼い子供の喋り方や歩き方を指摘するようなものです。」アフリカの教育者達はほとんどの時間、生徒と供に演奏したり過ごし、競争はなく、ただ演奏しかないようです。

私たちの文化の中であがり症を強く意識せざるを得ないのは、どうやら西洋音楽・クラッシック音楽に深く根付いたことではないかとうかがえます。
クラシック音楽業界全体に自己正当化、競争意識が深く染み付いており、その影響は聴衆にまで及んでいます。何世代もの間に、一般大衆は楽しむことより、批判・批評することに慣らされてしまったように感じます。かのハイフェッツも、演奏会にくる3,000人のうち、2,999人までが彼が音を外す瞬間を聴きに来ているのだと、確信していたといいます。
これでは芸術家があがりに悩まされていなくとも、コミュニケーションは聴衆によって妨げられていることになります。双方が楽しいと感じるためには表現者は「与える」、聴衆は「受け取る」気持ちがなくてはなりません。

このように恐怖心とは、純粋に個人のものだけではなく、聴衆と音楽家とがお互いに共有している文化的な現象でもあります。個人が変わるのと同時に、その原因となっている文化も変わらなければならないと思います。
私はこの文化を微力ですが自分の周りから、生徒さんに対しても、少しずつ変えていきたいと思っています。



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